藤原京

藤原京は飛鳥京の西北部、現在の橿原市の位置にあった日本初の都城です。
南北中央に朱雀大路を配し、南北の大路と東西の大路を碁盤の目のように組み合わせて左右対称とする「条坊制」を、日本で初めて採用した唐風都城です。
持統・文武・元明天皇の3代にわたり16年間続きました。 昭和27年には平城宮跡とともに歴史・学術的に価値のある遺跡として「特別史跡」に、昭和43年9月には「歴史的風土特別保存地区」に指定されています。

以後の都づくりに引き継がれた、その構造

以後の都づくりに引き継がれた、その構造今から約1300年前に造営された藤原京。その大きさは南北約4.8km、東西約5.2kmと広大で、京の中枢であり天皇の住まいとなる「藤原宮」が中央に置かれていました。
中心に宮殿があることは、他の都城にない藤原京の大きな特徴であり、その構造は藤原京以降の都づくりに引き継がれていきます。

また、東西南北に道路が張り巡らされ、街並みが碁盤の目状に区切られ、そこに約3万人もの人々が暮らしていたと言われます。
藤原宮では初めて屋根に瓦が葺かれました。200万枚もの瓦が使われたようですが、この枚数は法隆寺の瓦の約100倍です。

藤原京の大きさを現在の地図に当てはめてみると、北は近鉄「新ノ口」駅、南が近鉄「橿原神宮前」駅から100mほど南の地点、東は桜井市内、西は畝傍山の西側とかなり広く、大和三山が全て藤原京の中に入っていたことになります。皆さんも地図を見て、その大きさを実感してみてはいかがでしょうか。

わずか16年の隆盛も、日本史に残る大きな足跡

わずか16年の隆盛も、日本史に残る大きな足跡

藤原京は16年間で廃都となりましたが、その間、大宝元年(701年)に大宝律令が完成し、政治の仕組みが整備されました。富本銭に続く和同開珎も発行され、経済の仕組みにも変化を生みました。
藤原京は、日本が律令国家として歩むきっかけとなる重要な時代の都なのです。
また初めて「日本」という国号を使用したのも藤原京を発した遣唐使です。

しかし、これほどまでに国家の礎を築くほどの繁栄と力がある大都市が、なぜ16年という短命で終わったのでしょうか?
立地や地形の問題、飢饉・疫病、遣唐使から得た唐の情報に対する隔たりの大きさや都城としての藤原京の限界…数々の諸説がありますが、真相は依然、定説もなく謎のまま。
ただひとつ言えるのは、「日本」を語る上で欠かせない都がこの橿原市にあり、今なお多くの人から親しまれていることです。

現在、藤原京の跡地である藤原旧跡では、菜の花やコスモス、キバナコスモス、ハスといった色とりどりの花が植えられ、来る人を楽しませています。大和三山の絶好の眺望スポットととして平成23年6月には「重要眺望景観」に指定されました。また映画の撮影舞台にもなるなど、藤原京はこれからも愛され続けていくことでしょう。

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